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読書や勉強したこと、思ったことをまとめたり紹介したりしつつ、労働や貨幣などにかんする問題に言及したいと思っています。
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「かもしれない」のススメ2
前回の投稿で、決めつけをせずに、証拠に基づいて物事を考えるための処方箋を示すと予告した。今回は、その処方箋を示す。

それは、「かもしれないのススメ」である。どのようなことか。

簡単である。物事の原因や真相を考察するときに、「原因や真相は○○かもしれない」と考えてみるのである。

たとえば、気持ちが悪いと訴えている患者さんを診察するときに、「食中毒に違いない」「脳の病気に違いない」といきなり考えるのではなく「食中毒かもしれない、でも、脳の病気かもしれない」とまずは考えてみる。複数の可能性を念頭に置きつつ検査を進め、証拠がそろってきて十分だと思われた時に、判定を下すのだ(1)。

授業に集中していない子供がいるときに。いきなり「あの子はやる気がないだけだ」とか「授業のやり方がまずいに違いない」とか考えるのではなく「あの子はやる気がないかもしれない、いや、授業がまずいのかもしれない、いや、ひょっとすると何か体調が悪いのかもしれない、もしくは・・・」とまずは考えるのだ。そして、授業のやり方や部屋の環境を変えてみたり、子供と話したり、医学上の検査をしたりして、それらの証拠に基づき原因を決める。当然、複数の原因が関与している可能性も念頭に置かなければならない。

上の例を言い換えれば、いろいろな可能性(○○かもしれない)を念頭に置き、証拠がそろったうえで原因や真相を決定しなければならないのだ。もちろん、「三角形の内角の和はもしかすると170度かもしれない」などと考える必要はない。証拠がかなり有力であったり、定義的に真である場合には、断定してもよいだろう(2)。

いろいろな問題を考えるときに「○○かもしれない、いや××かもしれない・・・」と念頭に置いて考察を進めて、決めつけに陥らないようにしていきたいものだ。





(1)すべてを食中毒だと考える医者はまずいが、食中毒が原因だと絶対に考えない医者もまたまずい。

(2)証拠の妥当性の吟味は忘れるべきではない。また、別の証拠が出て真相が変わることもないとは言えないことには留意すべきであろう。
| - | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「かもしれない」のススメ1
これは架空の推理小説である。

探偵「犯人はあなたです」
容疑者「証拠はあるのかな?」
探偵「証拠はない。だが犯人はあなただ」

完結

何とまずい推理小説であろうか。作品としてまずいだけでなく、倫理的にもまずい。

このまずさに気づくのは簡単であろう。では、次の架空の広告を見てみよう。

「あなたの体の不調、原因は○○です。わが社の××を飲むと……」

これをみると、××を買いたくなってしまうかもしれない。しかし、この広告と上の推理小説は同じまずさがある。
それは、どのようなことだろうか。

それは、根拠を挙げずに決めつけを行っているということである。そこにまずさの源があるのだ。
なぜ、根拠を挙げない決めつけはまずいのか。

1つは、根拠を挙げなくてよいならば、どのような主張も妥当になってしまうからである。証拠なしに犯人を決めてよいなら、だれでも犯人になってしまいうる。

2つは、本当の正体を発見できなくなるからである。「原因は○○である」と決めつけたならば、「原因が△△である」という可能性は無視されてしまう。もし本当の原因が△△だったならば、我々は真実を見落としたことになる。

このまずさは、直観的にも了解可能だ。たとえば、医者が「気持ちが悪い」と訴えている患者さんを前にして、食中毒だと決めつけたとしたらどうだろうか?食中毒である可能性も無論あるが、本当は脳の病気が原因であるということもある。我々は、この医者を信頼することができないだろう。

「こんな決めつけなんてないよ」。本当にそうだろうか。このブログではかつて授業中に眠くなる原因を複数の要因によってとらえるのがよいと提唱した。しかし、いろいろな議論を見ていると「生徒がたるんでいるから悪い」「先生の授業が悪いのだ」「みんなナルコレプシーにかかっているのだ(これはないかもしれない)」等々と一方的に証拠を挙げずに断じ、ほかの可能性を顧みさえしないという例にぶつかりはしまいか(1)。これは論理構造が「気持ち悪い?食中毒ですね」と同じである。

そう、冒頭の迷探偵や迷広告、迷医の、証拠を挙げずに決めつけるという論理構造を取り出してみると、それは案外身近にあると思い当たるのではないか(2)。ニュースや書籍にさえ、見受けられるだろう。

今回は、決めつけは身近にあふれており、気を付けなければならないということを述べた。次の投稿で、決めつけに陥らないための処方箋を示したい。


(1)もちろん、それらのどれかが単独の原因であることがないとは言えない。しかし、単独の原因だと断定するには、証拠が必要である。証拠なしで論ずるならば、それは冒頭の「迷探偵」の論理になってしまう。

(2)ただし、すべての場合いちいち証拠を挙げる必要はない、というのもまた事実である。たとえば、三角形の内角の和は180度で・・・ということをレポートで取り上げる場合に、その証拠を書く必要はないと思われる。そのため、どこまで証拠を挙げる必要があるかはその文脈による、というのも事実ではある。ただし、それによって決めつけは正しいとは言えないだろう。
| - | 17:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
あいさつ
遅くなりましたが、新年の挨拶を申し上げます。

今年は、可能な限り更新する年(まず量を)にしたいと思います。

皆様、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
| - | 17:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
因果関係を探すときの注意について
以前の投稿(「因果の鎖の色」「AとBとの関係は?」など)と重複する部分もあるが、レポートを書いたり、議論を深めたりするときに欠かせない因果関係の究明に必要な注意事項を述べてみたい。それによって、間違った因果関係にのっとってレポートを書いてしまったり、因果関係が見つけられなかったりといったことが少しでも減るなら、とてもうれしいことである。

1つ目として、原因は複数か?単数か?という点に気を付ける必要がある。たとえば体の不調があったとする。もちろん、それは1つの病気=原因から来ているかもしれない。しかし、複数の病気が同時に起こっていて不調を生み出していることもある。原因=病気は常に1つだと思い込んでいては、間違った診断を下すことになるだろう。また、別の例を挙げる。植物が枯れた時、水不足と肥料過多と病気がすべて影響して植物を枯らしてしまうということもある。これも、原因が複数あるケースである。これらの例のように、因果関係を考えるときは、一つの原因だけですべて説明できるか、検討してみる必要もあろう。

2つ目として、時間を考慮に入れることである。たとえば、以下の論証を考えてみる。「タバコを吸って1日たった。がんになっていない。ゆえに、たばこはがんの原因とならない」どうだろうか。おかしいだろう。なぜなら、長い年月を経てがんを引き起こす可能性を無視しているからである。政治でいえば、10年前の失策の傷が今になって表れることもあるし、正しい政策でもすぐには効果が出ないこともある。50年前の何らかの原因が今になってある結果をもたらすようなこともないとは言えない。我々は因果関係をとらえるときに、時間軸も意識しなければならない。

3つ目は、偶然の一致を常に忘れないことである。「咳をしたときに、サイコロを振ったら6の目が出た。ゆえに、咳をすれば6の目が出る」などという因果関係を仮定してはいけない。2つに出来事の間に、偶然の一致という関係もよくあることに注意が必要だ。注意しないと、こじつけの因果関係が生まれてしまう。

他にもあるだろうが、この3つに注意するだけでも因果関係の判断ミスを避けやすくなるだろう。
| - | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
AとBの関係は?
Aという物事・出来事・事象とBという物事・出来事・事象が同時に存在している場合、両者にはどのような関係があるのだろうか?あ例えば、「ある病気の増加」という事象と、「ある食生活の変化」という事象が同時に存在するとき、その二つはどのような関係にあるのだろうか。

我々は、ともすると両者の間に因果関係があると即断してしまいがちだ。たとえば、食生活の変化が原因で病気が増加してしまった、というように。しかし、必ずしも因果関係があるとは限らない。そのほかの関係もありうる。いかで、いろいろな関係を取り上げ、即断の過ちから解放されるようにしていきたい。

1つ目は、AとBの間に何も関係がない(あるいは、ものすごく薄い関係しかない)パターンである。たとえばA「今日は月曜日である」という事象とB「リンゴが赤い」という事象の両方があった場合、その両者には特に関係はない。このようなパターンがある。

これのもう少しややこしいパターンに「偶然の一致」がある。たとえば「宝くじに塩をかけた」という事象と「その宝くじが当たった」という事象があるような場合である。このような場合は、おそらく「偶然の一致」だろう。塩をかけても外れる宝くじはあるし、かけなくても当たるものもあるからである。これも何の関係もないパターンなのだが、人間の目には関係あるように見えてしまうので、注意が必要だ。

2つ目は、AとBは同時に起きるが、因果関係ではないパターンである。たとえば、A「テレビの画面がうつった」B「テレビの音が聞こえた」という二つの現象が起こった時に、どちらかが原因でどちらかが結果という関係性はない。C「テレビをつけたこと」が原因で「映る」「音が聞こえる」という現象が起こったといえる。言い換えれば、Cという現象の結果としてAとBが起こったということができる。

3つ目は、AとBが同時に起こっており、AがBの原因となっていると同時に、BがAの原因ともなっているというパターンである。そのようなことがあるか。ある。たとえば、A「暑い」B「エアコンを使う」という2つの事象を考える。確かに「暑い」ことは「エアコンを使う」原因となる。しかし同時に、エアコンの室外機は外に熱を発し、外の気温をあげる。つまり、「エアコンを使う」ことが「暑い」ことの少なくとも一因にはなっている。このような場合、AはBの原因であると同時に、BがAの原因である、といえる。

4つ目は、Aという事象もしくはBという事象のどちらかが事実ではない場合である。たとえばA「ゲームの流行」とB「少年犯罪の増加」という事象があったとする。これは一見AがBの原因であるように見える。しかし、実際にBの事象が起こっているかどうかには疑問の余地がある。少なくとも統計上は。また、本当にゲームが流行しているかも、検討の余地があるといえないこともない。

我々は、物事の関係性をとらえるときに、以上のような観点を意識する必要がある。
| - | 13:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |