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読書や勉強したこと、思ったことをまとめたり紹介したりしつつ、労働や貨幣などにかんする問題に言及したいと思っています。
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| - | | - | - | pookmark | 昨年の記事
二項対立を排す その2 目的と手段は恣意的にしか違うものとみなせない
 ※ 今回の議論は、過程と結果に関する議論と類似している。

目的と手段は別のものと考えられることが多そうだが、本当のところはどうなのだろうか。結論を先に言ってしまえば、両者は恣意的にしか分離できない。つまり、ある物事は目的でもあり、手段でもあるというのが一般的なのである。以下でそのことを論証したい。

たとえば、資本制を与えられたものとして、貨幣を獲得するということを考えよう。貨幣の獲得は手段であろうか、目的であろうか?多くの人にとっては、何か −たとえばクッキー− を買うための手段であると考えるであろう。しかし、一部の人は貨幣を買う得することこそが目的であると考えるかもしれない。また、クッキーの例にしても、クッキーを勝って食べることが目的である人もいれば、クッキーを賄賂としてプレゼントし、更なる自分の欲求を満たそうとする人(つまり、クッキーの入手を手段とする人)もいるだろう。このように、ある行為が手段となるか目的となるかは、その本人が恣意的に決めるしかないのである。ちなみに、「幸せ」ということについても、「俺の幸せな姿をあいつに見せて、あいつを悔しがらせてやる」と考える人にとっては、目的ではなく手段に成り下がってしまう。倫理的には後者は正しいとは思われないが、論理的には後者も前者も成り立つ。どちらを選ぶかは本人の恣意による。

ちなみに、あることを目的とみなすか、手段とみなすか、どちらが正しいかは一概には言えない。たとえば(貨幣そのものは正当であるとのブルジョワ的前提に立つことを許してほしい)貨幣を獲得することを目的とみなす人と、貨幣を何かを買うための手段とみなす人の二者を考えよう。この場合、後者のほうが妥当であると思える。しかし、実際はそうとも限らない。なぜなら買われるものが「何か」が分からないからである。そこに、殺人のための武器という言葉を代入するならば、もちろん、貨幣の獲得そのものを目的とみなすほうがましであろう。

この例から明らかなように、手段とみなすか、目的とみなすかは、恣意であり、どちらがよいかはあくまでその手段のよさや目的の妥当性からのみ考察できるのである。手段とみなすほうがいいとか、目的とみなすほうがいいとか、そういった一般化は不可能である。われわれのなすことは、手段であり、かつ、目的である。分割は恣意によってしかできない。



| そのほか | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
二項対立を排す1 思考と知識の関係

もしかすると、大学ではいろいろ考えたり研究したりして、自分なりの考えを作ったり、道のことを発見したりしたいという希望を抱いている人もいるかもしれない。それはすばらしいことである。ただ、だからといって知識を得ることを軽視してはいけない。むしろ、知識と思考(研究)は、相互に助け合う存在である。今日は、そのようなことをめぐって議論していきたい。まずは、思考が知識を生むということを確認する。次に、知識が思考には必要ということを述べる。そして、知識が思考を生むということも述べる。最後に、それらをまとめて、知識と思考(研究)は相互に助け合っているということを述べたい。

では、思考が知識を生むとはどういうことだろうか?たとえば、「慣性の法則」など、何らかの法則を思い浮かべてみよう。そういったの内容は、知識として私たちの頭に入ってくる。しかし、その知識はいきなり魔力によって生み出されたわけでは、もちろんない。仮説を立てる思考や研究によって生まれてきたのである。もうひとつ例を挙げよう。たとえば「サラディンは寛容な人物であった」(1)という知識があるとしよう。そういった知識は、当時の記録に残されている彼に対する評価や、彼の行ったことを総合的に検討した後に成立する知識である。すなわち、研究があって始めて成立するわけである。思考が知識を生むとは、今あるいろいろな知識は、研究(思考)があったからこそ存在しているということである。そもそも、研究の成果は何かで発表されるや否や、否が応でも知識として伝わっていかざるを得ないだろう。

逆に、知識は思考(研究)に必要である。たとえば、「唐と宋の文化の違いを考察せよ」という問いを考えたい。唐や宋についての知識がなければ、この問について考えることは不可能である。ちょうど、「はなさかじいさん」の話を知らない人が「はなさかじいさんの教訓はなんだろう?」と考えられないようなものである。私たちは、自分の知らないことについて考えるためには、まず調べる、つまり、知識を手に入れていくようにしなければならないのである。(2)

また、基本的には知識が多いほうが思考は深まる。たとえば、「唐の文化の特徴は何か」ということについて考えるとき、唐についての知識は不可欠である。だがもし、それだけでなくほかの国の文化を知っていたほうが、比較対象が広がるため、よりよく特徴を浮き彫りにできるであろう。また、文化といっても唐詩だけを知っているよりは、絵画や書についても知っていたほうが寄り深みのある研究ができるであろう。

だが、それだけでなく、知識が思考を誘発するということを見逃してはいけない。たとえば、三国志を知っている人は、誰でも一度は、「一番強い武将は誰だろう」などと考えるであろう。将棋の定跡、囲碁の定石を知る人は「それとは違う手を打たれたらどうだろう?こっちのほうがいいのではないか?」などと考えるであろう。このように、何かに関する知識は、それに関する思考を生むのである。つまり、知識を幅広く得ることで、いろいろな思考の対象を獲得できるわけである。

このように、知識と思考は決して対立するものではない。私たちは、知識を求め、思考し、知識を生み出していくのである。皆さんは得た知識を下に研究し、新たな知識を生み出す。その知識はまた次なる世代の思考を生むのである。大いに学び、大いに考えるべし。




(1)サラディンは、十字軍戦争で活躍したイスラームの君主。
(2)実は、調べるということと知識を得るということは必ずしも同一ではない。そのことについては稿を改めて議論する。

| 大学生活に寄せる何か | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事