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読書や勉強したこと、思ったことをまとめたり紹介したりしつつ、労働や貨幣などにかんする問題に言及したいと思っています。
2010.08.19 Thursday
二項対立を排す その2 目的と手段は恣意的にしか違うものとみなせない
※ 今回の議論は、過程と結果に関する議論と類似している。
目的と手段は別のものと考えられることが多そうだが、本当のところはどうなのだろうか。結論を先に言ってしまえば、両者は恣意的にしか分離できない。つまり、ある物事は目的でもあり、手段でもあるというのが一般的なのである。以下でそのことを論証したい。 たとえば、資本制を与えられたものとして、貨幣を獲得するということを考えよう。貨幣の獲得は手段であろうか、目的であろうか?多くの人にとっては、何か −たとえばクッキー− を買うための手段であると考えるであろう。しかし、一部の人は貨幣を買う得することこそが目的であると考えるかもしれない。また、クッキーの例にしても、クッキーを勝って食べることが目的である人もいれば、クッキーを賄賂としてプレゼントし、更なる自分の欲求を満たそうとする人(つまり、クッキーの入手を手段とする人)もいるだろう。このように、ある行為が手段となるか目的となるかは、その本人が恣意的に決めるしかないのである。ちなみに、「幸せ」ということについても、「俺の幸せな姿をあいつに見せて、あいつを悔しがらせてやる」と考える人にとっては、目的ではなく手段に成り下がってしまう。倫理的には後者は正しいとは思われないが、論理的には後者も前者も成り立つ。どちらを選ぶかは本人の恣意による。 ちなみに、あることを目的とみなすか、手段とみなすか、どちらが正しいかは一概には言えない。たとえば(貨幣そのものは正当であるとのブルジョワ的前提に立つことを許してほしい)貨幣を獲得することを目的とみなす人と、貨幣を何かを買うための手段とみなす人の二者を考えよう。この場合、後者のほうが妥当であると思える。しかし、実際はそうとも限らない。なぜなら買われるものが「何か」が分からないからである。そこに、殺人のための武器という言葉を代入するならば、もちろん、貨幣の獲得そのものを目的とみなすほうがましであろう。 この例から明らかなように、手段とみなすか、目的とみなすかは、恣意であり、どちらがよいかはあくまでその手段のよさや目的の妥当性からのみ考察できるのである。手段とみなすほうがいいとか、目的とみなすほうがいいとか、そういった一般化は不可能である。われわれのなすことは、手段であり、かつ、目的である。分割は恣意によってしかできない。 2010.08.18 Wednesday
二項対立を排す1 思考と知識の関係
もしかすると、大学ではいろいろ考えたり研究したりして、自分なりの考えを作ったり、道のことを発見したりしたいという希望を抱いている人もいるかもしれない。それはすばらしいことである。ただ、だからといって知識を得ることを軽視してはいけない。むしろ、知識と思考(研究)は、相互に助け合う存在である。今日は、そのようなことをめぐって議論していきたい。まずは、思考が知識を生むということを確認する。次に、知識が思考には必要ということを述べる。そして、知識が思考を生むということも述べる。最後に、それらをまとめて、知識と思考(研究)は相互に助け合っているということを述べたい。
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